日本人として鹿児島を知ることの意味

この夏は生きている間にもう一度九州、特に日本人として鹿児島にはどうしても行きたかったのです。気ままに訪ねたいところを動くにはバイクが便利ですが、年齢的にもそろそろバイクに乗り続けるには限界かなと感じ、長距離ツーリングとしては最後のつもりで、大阪から別府へフェリーで移動し、阿蘇から大分、宮崎、そして鹿児島まで走り、最後は志布志港から大阪に戻ってきました。
九州へは仕事や観光で何度も訪れていますが、最南端の鹿児島は近代日本の礎であり、桜島はじめ風光明媚な観光地だけでなく、明治維新の史跡も多くあります。ただ日本人として忘れてはならないのが、先の大戦で大きな犠牲を払った沖縄の悲劇だけでなく、その沖縄を救うべく多くの若者が鹿児島にある航空基地から飛び立ち英霊となった特攻隊の歴史です。
特攻隊を負ける戦争に無理矢理命令で自爆攻撃をやらされただけという心無い人がいます。私は戦後生まれですが、日本人のルーツやアイデンティティを大事に考える人なら、私たちの祖先が生きてきた歴史を素直に勉強して受け止めるのが、今を生きる私たちの最低限の義務だと思っています。
今年、沖縄の辺野古で悲しい事件がありました。平和学習という名の元で子どもたちの安全よりも自分たちのイデオロギーを主張するのは明らかにおかしいです。沖縄だけでなく、被爆地の広島や長崎でも非戦の誓いとしての平和学習を修学旅行で実施するのは意味はあるとは思います。しかしながら、鹿児島にある知覧特攻平和会館や鹿屋航空基地史料館を見ることも平和を考える学習であり、日本人として一度は訪れるべきではないかと思うのです。
特攻隊の史料館は決して戦争を賛美するものではありません。なぜ当時17歳の予科練の子どもたちや学徒出陣で徴兵された20才そこそこの若者が、どういう気持ちで飛び立っていったのか、こういう悲劇を繰り返さないために今を生きる私たちは何を考え、どう行動するべきなのか、日本人は一番学ばねばならない平和学習に他ならないと考えていました。
3年前に九州にツーリングに行ったとき、鹿屋航空基地史料館に立ち寄る機会があり、英霊になられた方々の遺品や手紙、写真に圧倒され、正直言葉が出ませんでした。鹿屋基地から飛び立ち帰らぬ人となった英霊は1945年3月11日から8月の終戦日まで合計908名です。知覧は陸軍の特攻基地として有名ですが、3月下旬から6月11日までの2カ月半の出撃で合計439名と鹿屋基地の約半分です。特攻隊の主力は海軍の航空基地であり、他の海軍航空基地から飛び立たれたのは国分基地から427名、赤江基地から385名に留まらず、台湾や九州以外の基地を含めると、海軍の特攻戦没者数は人間魚雷等も入れると4146名、一方陸軍の特攻隊は知覧を含めて2225名、合計6371名が自爆攻撃で南方の海に散ったという事実に思いを馳せることができるのが鹿児島なのです。
知覧と鹿屋を訪れて改めて思うこと
3年前は日程の関係で知覧には行けませんでしたが、今回ばかりは行けるのがもう人生最後かなという思いもあり、今度こそ知覧の特攻平和会館にだけは行きたかったところでした。
鹿屋航空基地の史料館は現在の海上自衛隊の基地内にある施設であるため、特攻隊の史料だけでなく、海上自衛隊の活動PRという展示が半分ぐらいを占めているので、どちらかというと知覧の特攻平和会館の展示の方が胸に突き刺さるものがありました。展示だけでなく、特攻の母と呼ばれた鳥濱トメさんの富谷食堂を受け継いだ食事処があったり、特攻平和観音堂があります。
知覧も鹿屋もずらっと並んでいる一人ひとりの遺影や遺品を撮影することは厳禁です。ご遺族の方々が提供された貴重な遺品や遺書、その思いを察するに当然のことです。見学者もただ静かに手を合わせ、涙なしに見ることができない祈りを捧げる空間であったと思います。亡くなった英霊は皆17才から20代の若者ばかりでした。彼らは紛れもなく私たち日本民族の祖先です。国のためというよりも残された家族のため、そしてこれから生まれ来る子どもたちへのあふれ出る思いが遺書から伝わってきます。私たちが17才や20代のとき、こんな立派な文章が書けただろうかと恥ずかしくなるとともに、英霊の皆様の自己犠牲があったからこそ、今こうして日本人として生まれてきた運命が繋がり、こうして今の世代で生きている意味があるのだという感謝の念でいっぱいになりました。
戦没者の御霊に感謝の気持ちを表すのは日本人として当たり前のことですし、今の世に生かせられているのは、父母の世代が生み育ててくれたからであり、そしてその父母の祖先がいなかったら自分は生まれてこなかったという事実を正面から受け止め、残りの人生をどう生きていくべきか改めて考え直す気持ちになりました。今の世代を生きる私たちにはこれからの日本を支える次世代に繋いでいく責任があります。子孫をつないでいく責任、経済と富をつないでいく責任、そして国と日本人のこころをつないでいく責任を今一度国民全員が問い直すべきと感じた令和8年の夏でした。


